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日中国交正常化50周年を前に岐路に立たされる日本
12月10日は「国際人権の日: International Human Rights Day」と国際的に定められている。この記念日は、1948年の国連総会で提唱された世界人権宣言の採択を記念して、国際連合により制定された。毎年12月4日から10日までを「人権週間」とし、人権尊重思想の普及高揚を図り、国際連合広報センターを中心に世界中で様々な催しが行われている。しかし人権の問題は、人種差別など世界の広い地域で起こる問題もあれば、民族問題などある国家や地域の中でかくまわれ、国際的に認知されにくい人権問題もある。慣習国際法的にも、ある主権国家が自国内で管轄すべき利害関係の生じうる内政事情に関して、他の国は過剰な内政干渉をひかえる「内政不干渉の原則」がある。従って国連に加盟する国家は、互いの国の人権問題に対して慎重な対応をせざるを得ない義務がある。つまり国連が地球規模で解決を目指す人権問題であるにも関わらず、その加盟国が他国を監視・管理することは、国際法に抵触する矛盾行為となるのだ。
そもそも基本的人権の尊重は、人道的支援からも国家の枠組みを外して考えるべき共通の問題であり、ある意味主権国家にとらわれない非政府組織(NGO)の方が目的にかなう影響力のある活動をしやすい。そうした観点から国家間で解決の難しい国際人権問題に対し、人権侵害のない国境を越えた市民活動を目指して1961年に結成されたのがアムネスティ・インターナショナルである。このNGOの自由と正義と平和の礎をもたらした活動が評価され、1977年にはノーベル平和賞を受賞している。
加えて、SNSを通して個人の発信力が飛躍的に高まる現在では、政治家以上に人権問題や平和維持活動に貢献するジャーナリストの存在が注目されている。その証拠に2021年のノーベル平和賞は、フィリピンとロシアの2人のジャーナリストが受賞した。SNSを規制し監視しようとする国家が増えている今こそ、勇気を持ち情報を発するインフルエンザ―と化する個人ジャーナリストの存在意義は大きい。しかしその活動は常に国家から命を狙われる存在となるため、個人やNGOを守る国際的監視体制が国際社会に求められている。今年2月のクーデターで国軍に1,300人以上の市民の命が奪われたミャンマーでは、12月6日に再びアウンサンスーチー氏に禁錮4年の刑が下った。イスラエル占領下のガザ地区からイスラエル軍によるパレスチナの女性や子供の惨状をSNSで訴える弱冠15歳の女性ジャーナリスト、ジャンナ・ジハードさんはイスラエル当局から発信を妨害されている。中国共産党の幹部から性的暴行を受けたとSNSで告発したテニスダブルス・元世界ランキング1位の中国の彭帥さんの失踪は、情報が世界に知れ渡るや中国国営テレビから満面の笑みと共にその姿が映された。アカウントが消された本人の安否疑惑が浮上すると、今度は国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長とリモートで談笑する姿が報じられるなど、全く違和感しか感じない。中国で起きた失踪事件は、新疆ウイグル自治区の人権侵害やジェノサイドと相乗して国際社会を巻き込み、12月10日の国際人権の日の前日となる12月9日には、米バイデン大統領の呼びかけで世界111カ国と地域の代表が集結する「民主主義サミット」開幕へと発展し、来年2月に開催される2022北京冬季オリンピックの「外交的ボイコット問題」へと拡大した。
中国共産主義に対抗して開催されたこの度の民主主義サミットには、共産主義を主軸とする国である中国・ロシア・ベトナム等は招かれなかった。既に外交的ボイコットを表明している米やイギリスに岸田首相は追従するのだろうか。この問題を考えるに、2022年に日中国交正常化から50周年を迎える両国関係のいきさつを振り返ることは肝要であろう。
日中の国交正常化は、1972年の日中共同声明によって、日本と中華人民共和国(=中国)が国交を結んだことを指す。日中共同声明は、1972年9月29日に北京で「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」の調印式が行われ、日本の田中角栄首相と中国の恩周来首相の署名により成立し、ようやく両国の不安定な関係が終了した。しかし「一つの国家には一つの政府しかない」という国際法の原則がある以上、北京の共産党政府、台北の国民党政府がいずれも中国の代表政府と主張する限り、中国との国交関係を樹立すれば、中華民国(=現 台湾)との関係を終了せざるを得なかった。日中共同声明を発表した当日の夜、日本はそれまで国交のあった台湾に断交を通告した。日中共同声明から6年後の1978年には、福田首相のもと日中平和友好条約が調印されている。
以上が両国の国交正常化のあらましであるが、国交回復までの基本的な日中関係の規定としては、日本はサンフランシスコ講和条約により中国とは疎遠であった。そして1952年に日華平和条約を結び、台北の国民政府を正統政権として認めていた。これは完全に米国に追従している形となる。中国を国とは承認せず、1971年まで台湾が国連に議席を持っていた。しかし国際状況が変化し、1971年7月にニクソンショックが起きる。これは、キッシンジャーが極秘に北京に入り周恩来と会談を行ったもので、これによりニクソンの翌年の訪中が決定した。この会談は外務省に事前通知されておらず、佐藤栄作政権は外交政策を批判されるが、日本は米中の接近を予期していなかった。その後、中国の国連加盟が模索された。日米はそれを阻止しようと中国の加盟には2/3以上の賛成が必要という重要事項を指定したが、1970年時点で半数以上が賛成、71年には2/3に迫ってきた。そこで逆の重要事項として、2/3以上の賛成がなければ台湾の脱退はできないと提案するが却下され、同年に中国が国連に加盟したことを受け、同時に台湾は国連脱退を余儀なくされた。
1972年に田中角栄内閣が成立すると田中氏は、「国交回復の期は熟す」と国交回復に意欲を見せ、与党内の親台湾派の説得や、台湾・米国の説得に取り組んだ。そして9月に田中自らが訪中し、国交正常化の形の模索と、台湾問題、賠償問題そして、日中関係の将来について話し合いを行う。1972年の日中共同声明では、1) 中国人民を代表する唯一の合法政権を中華人民共和国とすること、2) 賠償を放棄すること、3) 国連憲章に沿った将来設計を行うことの3つの方向で調印式が行われている。
首相自らが中国に足を運び、台湾との関係断交を通告し、両国の国交正常化という国際関係の選択肢を選んだ一端は、日本の側にも大きな責任がある。そして本協定前から今日に至るまで米国と蜜月関係を選び右へ左へ追従したのも日本である。目まぐるしくパワーバランスの代わる国際政治の世界で、日本だけがいつまでも八方美人の立場でいられるはずはない。日中国交正常化の際に交わした外交内容を遵守する立場から判断するなら、北京オリンピックにおける外交的ボイコットを米、英、カナダ、オーストラリアに続く形で日本が選択することは、両国関係において相応しくない。勿論それ以前に、アスリートの舞台となるスポーツの祭典を利用し、国際政治や人権問題を絡めて外交カードを投じる政治手法は言語道断、誠にいただけない。
かつて1937年7月7日から1945年9月9日まで日中戦争にあった両国であるが、敗戦から27年を経た1972年に日中国交正常化を締結し、来年は喜ばしい50周年を迎える。両国の明るい将来を見据えた数々の記念行事も、既に準備が開始されている。今後の両国の方向性について先に意思表示を示しているのは中国である。日本は米や英に追従する道を選ぶのか、隣国中国と共に東アジア諸国と融和に向かうのか、それとも世界全体との調和を重視し中立する自律国家を目指して進んでいくのか、日中関係と米英連携との狭間で日本は今とても大切な岐路に立たされている。
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