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Blog: Social impact issues2022.01.02

SNS社会に潜む犯罪病理

 2021年も何かと物騒な事件が世の中を乱した。新聞紙上で無差別、障害者、未成年、さらに高齢者が関与した事件を眼にする度にことさら胸が痛む。そして事件の報道を見るに、犯人の人物像を暴くべく、幼いころからの生い立ちに始まり、家族背景と家庭環境を探り、学業成積、学歴、職歴と履歴を連ね、果ては他人である知人の評判を放映する…そんなメディアのアプローチに疑問を感じずにいられない。きれいごとと言われたらそれまでだが、一視聴者として「何故そこまで凶悪な事件を起こす必要性が本人の心に内在したのか?」という犯人の動機を、どうにもこうにも理解できない事件が多いことは犯罪病理学的に大きな問題ではないだろうか。何故なら、一つひとつの事件の社会背景やゆがみについて、問題点の分析と論点が曖昧なまま、加害者である犯罪者の個人像ばかりに着目して責任能力を追及する風潮の報道姿勢では、凶悪犯罪が無くなる社会を実現するための解決の糸口を見いだせないからである。
 もちろん長引くコロナ禍の影響もあるだろう。しかしどんな凶悪事件の犯人でも、世の中が世の中ならば、そこまで悲惨な事件は起こさなかっただろうに…としばしば思う。極論的には、その犯人がもしも18世紀イギリス文学の金字塔であるダニエル・デフォー作の『ロビンソン・クルーソー』のような状況で、つまり複雑な人間関係の無い社会である無人島で暮らしていたと想像すれば、犯罪の質が異なることは容易に推測される。TVコメンテーターの意見も一般論としては参考にならなくはないが、出来れば専門とする犯罪心理学者の造詣の深い学説を聞いてみたい。


 ミレニアムから20年、凶悪犯罪の増加と共に私達の社会に訪れた最大の変化は、コミュニケーションの利便性を追求して形成されたSNS社会である。あらゆる社会に表と裏が存在するが、匿名性の高いSNS社会もしかり、いとも簡単に誹謗中傷が拡散され、偏った正義感が正当性ある意見として共感され「いいね」を得やすくなった。運営サイト側の企業も、定款を根拠に悪質ユーザーのアカウント停止や名誉棄損に該当する投稿を自動削除する機能を開発して虱潰しに対応しているが、時すでに遅しの感がある。いくら個人の罪を大きくメディアが報道しても、さらにSNSで拡散され話題が共有されたとしても、社会の中で繰り返される凶悪犯罪の根本的解決には結び付いていないのだ。従って、個人の責任を追求する報道姿勢ではなく、近年増加している凶悪犯罪の社会背景に向き合うより丁寧な解決への努力をしないことには、SNS文化が蔓延る限り100年経っても凶悪犯罪を減らすことは絶対的に難しい。

 AIやIoTが街行く人の一人一人の行動を認識して、犯罪の予兆がある人間を事前にスクリーニングするシステムの開発が進んでいる。しかしこれはこれで、凶悪犯罪を起こしてしまう人の心の病の治療に向き合うアプローチとは全く別の戦略である。もっとも、凶悪犯罪を起こす本人自身の大きな関心事の一つが、「事件後に己の犯した罪がSNS上でどの様に拡散されるか?」である点は、今日のメディア報道の有り方にも通ずる議論の余地のある問題である。それ故、「さらに過激な犯罪を、自らのシナリオ通りに、よりドラマチックに完結したい…」と周到に計画する犯罪者の心理的思考から、SNS社会に潜む犯行前の特有な動機に絡む犯罪病理を分析することは非常に重要な意味を持つ。


 一つの発言が大きく拡散されては破壊的な影響力を持ち、その一方でターゲットにされてしまうと、日に数万件もの非難に追いつめられるリスクがあるのがSNS社会である。インフルエンザーのふとしたつぶやきが、瞬く間に多くのユーザーをYesかNoかに同調させることで、短期間に一方的な世論や思想が形成されてしまう。リアルな話し合いの場では、相手に配慮しつつ多様性を受け入れる議論のできる人でさえ、仮想空間のSNSでは、相手の心を思いやる気持ちが薄れてしまうらしい。数年来、世界各国でFacebookが有罪判決を受けている。問題解決の糸口として、確かに企業の社会的責任(Corporative Social Responsibility; CSR)を問う判例は必要だが、本質的には個人がSNSをどう利用していくかに帰結する課題である。つまるところ各個人がSNSリテラシーを改め向上させない限り、根本的解決には繋がらない。凶悪犯罪の無いSNS社会を実現するためには、どのような社会構造改革が必要なのだろうか。コミュニケーションツールを日常的に用いているエンドユーザーの一人としてSNSについて批判的に熟考し、先ずは自分自身に客観的に自問してみたい。

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