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プーチン大統領が展開する冷戦後の対米外交
第二次世界大戦後の世界は、米国とソ連を二大大国とする東西陣営の対立を軸に展開した。その背景には東西国家間のイデオロギーの相違があった。すなわち、アメリカ合衆国ひきいる自由=資主義諸国と、ソ連ひきいる社会=共産主義諸国の間に展開された、全面戦争にはいたらない、しかし一歩手前の緊迫した国際関係である冷戦が繰り広げられた。冷戦は1980年代後半に終結するが、両国は常に互いの国情に反応した外交政策を打ち出してきた。
1999年12月31日にテレビ演説で電撃辞任を表明したボリス・エリツィン大統領の後継として当時首相だったウラジーミル・プーチン氏が大統領に就任して以降、プーチン氏が今日まで展開してきた冷戦後の対米外交は、単に両国間で直接戦争が勃発しなかっただけで、けして平和が維持された状態では無い。こうした両国関係の延長線であろうか、世界が2022北京冬季五輪に浮かれる背後でロシア軍のウクライナ侵攻が俄かに現実味を帯びている。この戦いは人類終焉のシナリオとなる核戦争の引き金にもなりかねない。今後の米露そして米中関係の動向を正確に注視するためにも、ここは今一度、東西冷戦と冷戦後の米露関係について辿るべきだろう。
そもそも冷戦は1946年、英首相チャーチルがソ連と東欧諸国の秘密主義を「鉄のカーテン」と非難し、翌1947年米大統領トルーマンの「封じ込め政策」、国務長官マーシャルの「マーシャル=プラン」に端を発する。その後、1948年ベルリン封鎖、1949年ソ連陣営の経済協力組織である経済相互援助会議 (COMECON) に対する米国を中心とした西側諸国の北大西洋条約機構 (NATO) の結成、また新たに成立した中華人民共和国とソ連が同盟を結んだことで冷戦はより激化した。さらに1955年、ソ連を中心とした東欧諸国はNATOに対抗してワルシャワ条約機構 (1991年に解体) を結成した。そんな最中、1950年、ついにソ連と中国の支援する朝鮮民主主義人民共和国と米国の支援する大韓民国の二国間における北緯38度線の軍事境界線上の朝鮮戦争が勃発した。この戦争は東西両陣営の対決の構図が背後に潜んでいた。開戦直後、国連の安全保障理事会は迅速に反応し、初の国連軍の派遣を勧告したがこの会議にソ連は欠席を示し、事実上米国を中心とする多国籍軍が派遣された。
こうした一連の冷戦激化の潮流を受けて、やがて世界は少しずつ平和共存の呼び声に耳を傾け始める。朝鮮戦争の休戦協定が成立した翌年の1954年、インドのネルー首相と中国の周恩来首相が会談し、平和共存の五原則 (領土と主権の相互尊重・相互不可侵・内政不干渉・平等互恵・平和共存) を確認する。続く1955年にはインドネシアのバントンでアジア・アフリカ会議が開催され、冷戦に対する平和十原則 (五原則に、国連憲章の尊重・国際紛争の平和的解決・集団的自衛権の尊重・大国中心の集団防衛反対・国際義務の尊重、を追加) が掲げられた。大国はこの動きを受け、同年にスイス・ジュネーブでソ連・米国・英国・フランスの4国首脳会談を実現させた。この会談では紛争を話し合いで解決する気運をつくるなど、冷戦状態にあった東西陣営の姿勢に少しずつ緩和の兆しが見え始めた。そしてついに、1959年ソ連・フルシチョフ首相と米国・アイゼンハワー大統領の二大巨頭がアメリカのキャンプデービットで会談を実現し、東西の緊張は和らいだ。1961年に米大統領に就任したJ・F・ケネディ大統領はより積極的なソ連との話し合い外交を展開した。1962年10月、戦後最大の核戦争危機であるキューバ危機の際にも話し合い外交は断行され、危機回避後の1963年には、キューバ危機を契機に米ソ間に緊急直通通信線となるホットラインが設けられた。
キューバ危機以降、米ソは共に宇宙開発、軍備充実による均衡型の外交を維持した。その反面、国際政治は東西二極の構図から、米仏対立、中ソ論争、非同盟主義など多極化の様相を示した。そんな中、国際社会において米ソ以外に勢力を伸ばしてきた動きがあった。西側諸国においては、後の1993年に欧州連合 (EU) の土台となる1968年に結成した欧州共同体 (EC)、そして高度経済成長を遂げ1960年以降、国連非常任理事国に選出され、発展途上国へ政府開発援助 (ODA) を積極的に励行してきた日本、の2つの地位が向上してきた。
他方、東欧諸国においては、1969年に中ソは国境地域で武力衝突を起こし、ユーゴスラビアはチトー大統領のもと、ソ連に従事しない非同盟政策と独自の社会主義路線を開拓し、ポーランド・ハンガリーでは反ソ暴動が発生し、チェコスロバキアではプラハの春に象徴される自由化傾向がソ連の軍事介入を招くなど、政治の民主化や経済自由化を求める動きが加速した。そしてついに1985年、ゴルバチョフ政権はソ連国内のペレストロイカ・改革とグラスノチ・情報公開を推進し、1989年、地中海マルタ島で米ソは冷戦の終結を互いに確認している。
冷戦終結後、東欧の民主化運動により1989年にベルリンの壁が崩壊すると、ソ連は崩壊の一途をたどる。1991年ソ連共産党保守派によるクーデタが失敗しゴルバチョフが共産党中央委員会を解散させると、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国が独立し、同年中に残る12か国が主権国家として独立を果たした。その結果、ソ連はゆるやかな組織である独立国家共同体 (CIS) を結成し、これにより事実上のソ連共同体は解体した。旧ソ連の国際的な地位や利権・義務はロシアが引き継いだ。
このような時勢の中、ロシアの世界的地位と影響力を再び取り戻すため、2000年にロシア大統領として選任されたのが、プーチン氏である。氏は強いロシアの再建を第一の責務であると掲げ、中央政権の権限を強化した「垂直統治機構システム」を導入した。同時にロシア国民の愛国心を高める教育の導入と共産主義に相応した競争原理を社会に導入し、ロシア経済を飛躍的に向上させた。プーチン外交の矛先は2000年以降、主にCISとして独立を果たした旧ソ連諸国に向けられたが、その背後には欧州のみならず米国、日本、中国ほか世界中の国々に対し、再び強い影響力を持つロシアを実現すべく動き出した。
ソ連崩壊後、1992年にエリツィン大統領が施行した国営企業の民営化により、その後ロシアには新興財閥と呼ばれる一大勢力が誕生した。やがてこの勢力は石油・石炭・天然ガス・パラジウム等の鉱山資源、さらに小麦に関わる基幹産業を抑えはじめ、大統領や軍をも脅かす存在となった。プーチン大統領は就任後「経済界はロシア政府に協力し国の発展に貢献すべきである」とし、政府の意向に従わない新興財閥を脱税等の名目で次々に拿捕しその資源を国で没収した。当時ロシア最大のガス会社であるガスプロムに関与していたメドベーチェフ大統領もこの意向に従い国の管理下となった。金融銀行もプーチンがトップを務め国営対外経済銀行を設立した。政府は国益にかなう企業を積極的に支援した。リーマンショックでは諸国の煽りでロシアの新興財閥経済も破綻を余儀なくされたが、その時までにプーチン氏はおよそ50兆円もの外資を「オイルマネー」として捻出しており、国内の新興財閥から300以上の企業を国の管轄下に置くことを条件に復興支援し、再び政府は革命以前のロシアの様に独自の国家資本主義を歩み始めた。
巨大な資金を手にしたロシア政府は、米国やNATOをはじめとする東欧諸国において、2004年グルジアのバラ革命、2005年ウクライナのオレンジ革命に対し、ロシアは旧ソビエト連邦諸国にその勢力を見せつけるため北京夏季五輪の最中に勃発したグルジア紛争およびチェチェン戦争等を巻き起こし、徹底的に強化した軍事力を見せつけ強いロシアを復権させた。さらに多くの若者に、国益に関する愛国心を育てる情操教育としての軍事教育もプーチンは「愛国プログラム」を掲げ積極的に行った。軍事費を以前の5倍に増額し、武器の輸出など軍事産業を充実させさらなる経済力の発展を遂げ、欧米諸国を射程とした長距離爆撃機を開発した。一方、国内の一般市民情勢は失業率に高騰と医療の低迷が問題となった。これに対しプーチン氏は、欧米諸国のカトリックに対等する勢力であったロシア正教を密に支援した。ロシアはそもそもオプシーナと称される共同体の文化があるため、無神論者が多かった共産主義時代の心の空白は、近年では国民の70%にまでロシア正教徒を増加させるに至った。
プーチン大統領が2000年以降に励行してきた米国を見据えた国際外交政策は、グローバル化が進む今日において、ロシアの復権のみならずロシアが世界の新のリーダーとなるための一貫した強い姿勢がうかがえる。ソ連崩壊後、企業を国益源として国が掌握し、財閥を解体し、豊富な石油や天然ガスを基盤とする巨額の資金を蓄え、多分に軍事産業に注いでいる。この動きは一見CIS諸国に向けられた政策であり、事実これまでロシアは米国と直接の対決はしてない。しかしその背後にはCISを支援する米国を筆頭とするNATO加盟諸国に対する勢力均衡の構図が浮かび上がる。バラク・オバマ氏、ドナルド・トランプ氏、ジョー・バイデン氏と3代にわたる米大統領が、その時々で話し合い外交を進め、プーチン大統領もこれまでは応じる姿勢を示してきた。しかし一貫してプーチン氏はNATO軍の侵攻に眼を光らせている。近年、米露は表向きには国際宇宙ステーションなどの宇宙開発分野や、核軍縮条約に関して協力を見せる節もあった。しかし2000年以降、プーチン氏が欧米に展開した外交政策は、エスカレートした核の均衡に象徴される冷戦路線を徹底して引き継いでいる。加えてこの20年で世界大国入りした中国と地政学的利点を活かして手を組み、欧米諸国に軍事力優位性を見せつけている。西側の日本に住む私達が報道で目にするロシアは、ツンドラの北の大地を猛進するシベリア鉄道に積まれた戦車の大群ばかりで、本当のロシアの政治史や軍事力に関しては無知な面が多すぎる。ここはひとまず、現代ロシア経済の底力を理解するためにも、高層ビルが立ち並ぶ異郷、「モスクワ・シティ」の写真だけでもじっくりと眺めておきたい。
参考文献
1.ミヒャエル・シュテュルマー著、池田嘉郎訳.『プーチンと甦るロシア』白水社(2009年)
2.北野幸伯.『プーチン 最後の聖戦』集英社インターナショナル(2012年)
3.中村逸郎.『ろくでなしのロシア プーチンとロシア正教』講談社(2013年)
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